
今回ご紹介する一冊は、
バートランド・ラッセル著 『幸福論』 です。
本書は、近代以前の名著についてYouTubeなどで情報収集していた際に興味を持ち、おなじみの生協の書店で手に取った一冊です。
本書は、第一部と第二部に分かれており、第一部では「不幸の原因」について、第二部では「幸福をもたらすもの」についての見解が含まれているものとなっています。
今回は、前半ということで、第一部について見ていきます。
思想書という立ち位置であるため多少身構えてしまう方もいらっしゃると思いますが、比較的平易な文体で書かれており(ラッセル自身も学識者に向けて書いたのではないとしている)、予備知識も特に必要ありませんので、気楽に追っていきましょう!

本書では、近代以後の文明人の日常的な幸不幸について考察しているということに留意しておいてね。21世紀の私たちにも多分に通ずるものであるよ。
- 哲学や思想に興味がある方
- 人生の幸福について考えることがよくある人
- 最近、人生がなんかうまくいかないと感じている人
- 世間の目を気にしがちな人
ラッセルについて
本書の内容を見ていく前に、著者であるラッセルについて簡単に紹介したいと思います。
バートランド・ラッセル(1872~1970)は、イギリスの哲学者、論理学者、数学者で、ケンブリッジ大学時代には、ホワイトヘッドとの共著である『プリンキピア・マテマティカ』を出版するなど、20世紀を代表する知の巨人です。
そんなラッセルですが、壮絶な幼少期を過ごします。
名門貴族の出身で、幼少期に両親を亡くし、祖父母に引き取られてからは、厳格に育て上げられました。
祖母は、ラッセルに対し、貴族として高潔で立派な人間になるよう徹底的なピューリタン的教育を施し、厳格で質素な生活を強いたといわれております。

ピューリタニズムに対する批判も、精神分析的な考察において本書の中にちりばめられているので、そこにも注目してみてね。
この厳格な教育がラッセル少年の精神に大きな影響を与え、思春期のラッセルには自殺願望すら芽生えていたそうです。
そんな中、ラッセルの精神を救い、自殺を思いとどませたのは、数学に対する純粋な興味、情熱であったといわれています。
また、第一次世界大戦に直面したラッセルは、参戦することに喜びを感じていた国民たちを目の当たりにし、人間の非合理性を認め、反戦活動を行います。
この活動から、国から危険因子とみなされ、解雇や投獄を経験するなど、危険な目に何度も遭いました。
そして、1930年、ラッセルが58歳のときに本書『幸福論』を出版しました。
不幸を誘引する自己没頭
ラッセルはまず初めに、はっきりとした外的要因がない、普通の日常的な不幸は、自分に対する関心、すなわち自己没頭によるものだと主唱しています。
以下にさまざまな不幸の原因が列挙されるが、一貫してこの自己没頭に関連があるということに注意して読み進めていきたいです。
まずこの自己没頭でありふれた3つのタイプとして、罪びと、ナルシシスト、誇大妄想狂を挙げています。
罪びと
幼年期に植え付けられたばかばかしい道徳律により、酒や性行為など、些細な事に対しても必要以上に罪悪感を感じてしまう、罪の意識に取りつかれた人のこと。
ナルシシスト
自分自身の魅力を賛美し、他者からも賛美されたい人、すなわち、世間への関心は世間に称賛されたいということのみである人のこと。
誇大妄想狂
権力を人生の唯一の目的とする人のこと。魅力的であるよりも権力を持つことを望むということでナルシシストと異なります。
ここでラッセルは、不幸な人間は、幼いときに正常な満足を奪われたために一種類の満足を何よりも大事に思うようになったという共通点を見出しています。

これは、他でもない、幼少期にピューリタン的教育を受けたラッセル自身が経験してきたことなのかもしれないね。
不幸の原因
さらに、ラッセルは不幸の原因について深掘りし、以下の8点に分けて考察しています。
バイロン風の不幸
バイロン風の不幸というのは、端的に言えば、いわゆるペシミズム、悲観主義のことです。
この不幸に陥っている人は、自分自身の不幸は宇宙の本質であると理解して、不幸こそが教養ある人のとるべき唯一の態度であると考えていると考察しています。
このペシミスティックな考え方は、しばしば現代人―我々からすると近代人かもしれませんが―の基質であると考えられており、その背景には、産業革命以後、あまりにも多くのものがやすやすと満たされるようになったということがあります。
そのため、格別強い欲望を感じないので、欲望を達成したところで幸福は得られず、したがって人生は根本的にみじめである、とこの不幸に陥っている人は結論づけているとラッセルは推論しています。
彼は、欲しいものをいくつか持っていないときこそ、幸福の不可欠の要素である、ということを忘れているのである。
競争
幸福の主たる要因として競争に勝つことを強調しすぎることも不幸の原因である、とラッセルは述べています。
この背景には、人生はコンテストであり、そこでは優勝者のみが尊敬を払われることになっているという人生観があるとしています。
この人生観は、資本主義の市場経済が社会に横たわらせた、「合理主義的個人主義の精神」にも起因するものであると私は考えます。
また、最近のSNSの台頭も、自己責任論的な考えを助長し、「競争主義」的な人生観を浸透させた要因になりうるかなとも思います。
成功は幸福の一つの要素でしかないので、成功を得るためにほかの要素がすべて犠牲にされたとすれば、あまりにも高い代償を払ったということになる。
退屈と興奮
人間は、農業の発達とともに増した退屈、または退屈への恐怖からの逃避として興奮を求めるようになったとラッセルは考察しています。
我々もスマホやゲーム、ショート動画などの台頭により刺激が氾濫しているこの現代では、より短期的な興奮を、意識的、あるいは無意識のうちに、たくさん求めるようになっているのではないのでしょうか。

私たちのドーパミンが操作され、絶え間ないコンテンツの消費に向かわされているのかもしれないね。
このあたりの議論は下の記事でも行っています。
ただ、このような一時的な興奮を求めることはその揺り戻し的に、かえって退屈を増大させるものとなってしまうということもラッセルは示唆しています。(既に読んだ方もいらっしゃると思いますが、これはアンナ・レンブケ氏が著書『ドーパミン中毒』で示した内容と酷似しています。)
幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、真の喜びが息づいていられるからである。
疲れ
今日の進歩した社会における最も深刻な疲れは、神経の疲れであるとラッセルは言います。
さらに、こういった神経の疲れの大部分は心配からきている、と続けます。
このような心配に対しては、それを直視して、それが宇宙にはどんな重要性も持たないということを理解することで、その起こりうる災難は大した災難ではないと結論付けることで避けることができる、と考察しています。

陳腐な表現かもしれないけど、宇宙から見たら私たちなんてごく微小な塵みたいなものだね。
自分も、精神が疲弊したと感じるときや、あまり好ましくないことが起こった時は、天球を仰いだりなど、大自然に思いを馳せるようにしています。
この起こりうる災難を直視した後は、これは結局、それほど恐ろしい災難であるまい、と考えるに足りるしっかりした理由を見つけることだ。
ねたみ
ラッセルは、心配ごとに次いで、不幸の最も強力な原因の一つとして、ねたみを挙げています。
他人との比較には際限がありません。
もしあなたが栄光を望むなら、ナポレオンをうらやむかもしれないが、ナポレオンはカエサルをねたみ、カエサルはアレクサンダーをねたみ、アレクサンダーは実在しなかったヘラクレスをねたんだことだとラッセルは言います。

上には上がいるのは世の常だね~
我々の住む現代社会では、SNSの登場以後、全世界の人を目の当たりできるようになりました。
素晴らしい特技を披露する人や、輝かしい経歴の持ち主が世にあふれているように見える社会になりました。
これによって、より一層人々のねたみに拍車がかかったように感じます。
隣の芝生は青く見えるのが常ですが、我々はそのような自分よりも幸福に「見える」人との比較をやめることでねたみから逃れられる、とラッセルは言います。
そのためには、自分への関心を手放す、没我的精神を手に入れるということに帰ってきます。(ニーチェの『ツァラトゥストラ』における超人の概念にも近いですが)
自己を超越することを学び、そして自己を超越することで宇宙の自由を獲得することを学ばなければならない。
罪の意識
先ほども記しました通り、西欧の、特にプロテスタントの国々では、ピューリタニズムの伝統がありました。
その伝統的な道徳律の命じるままに自己に意識を集中させることにより罪の意識が芽生えるとラッセルは言います。
その罪の意識から解放されるには、盲目的にその道徳に従うのではなく、理性的な信念、断固たる決意を持つべきだとしています。

ピューリタニズム的道徳観の無い私たち日本人からすればなじみの薄いテーマかもしれないね。
被害妄想
被害妄想も不幸の原因になることが多い、とラッセルは言います。
続けて、被害妄想は自分自身の美点をあまりにも誇大視することで生じるとしています。
自己欺瞞に基づく満足は決して堅実なものではありません。
これは、昨今の「承認欲求」の問題にも通ずる点はあると思います。
これもあまりにも自己が肥大化しているように思えます。
以下に、被害妄想の適切な予防策として示されている四つの公理を引用します。
- あなたの動機は、必ずしもあなた自身で思っているほど利他的ではないことを忘れてはいけない。
- あなた自身の美点を過大評価してはいけない。
- あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味を他の人も寄せてくれるものと期待してはならない。
- たいていの人は、あなたを迫害してやろうと思うほどあなたのことを考えている、などと想像してはいけない。
世評に対する怯え
世評に対する恐れは、他の全ての恐れと同様に、抑圧的で、成長を妨げるものである、とラッセルは言います。
これは、特に今日を生きる我々にとって重要な問題であるようにも思えます。
世評は、ラジオ、テレビ、SNSなどあらゆるメディアの台頭により、どんどん拡大化していっていおり、近年では、その匿名性が強くなり攻撃性を増しています。
この世の中では、世評がすべてであるように考えてしまう人も多くいるように思われます。
これが先ほどの承認欲求や、度を超えたコンプライアンス遵守などにもつながるのではないでしょうか。

今一度、精神の自由について考え直すべきかもしれないね。
当時であっても、重大な問題でも些細な問題でも、他人の意見が尊重されすぎているのではないか、とラッセルは考えています。
必要な限りで世論を尊重しなければならないが、この一線を越えて世論に耳を傾けるのは、自ら進んで不必要な暴力に屈することであり、あらゆる形で幸福を邪魔されることになる。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
自分に当てはまっていたと感じた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
次回は、後半の第2部である「幸福をもたらすもの」についてみていこうと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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