今回は、
レジー氏の『東大生はなぜコンサルを目指すのか』とともに、今日の社会に内在する風潮や精神、すなわち、成長しなければならないという強迫観念にも似た精神について考えていきたいと思います。
本書は、おなじみの大学の生協の書店にふらっと立ち寄った際に、帯の「仕事と成長に追い立てられる人たちへ」という言葉に目が留まり、即購入した一冊です。
私自身、漠然と、この大学生活というモラトリアムの中で成長しなければならないという観念が、どこか違和感を感じながらも自分自身の中にあることを認めていました。
その中で、このような「成長主義」ともいえる観念に一石を投じる本書に出会い、本書とともに考えたことを述べていきます。
- 漠然と成長への強迫観念を感じている人
- 今日の社会に幾分か息苦しさを感じている人

東大生はなぜコンサルを目指すのか
まず、本書の題名にもなっている「東大生はなぜコンサルを目指すのか」ということについて、少し考えたいと思います。
本書では、まず最初に、端的に「コンサルファームに行けば成長できる」という言説が昨今のコンサル人気を支える要素の一つとなっていると指摘しています。
ただ、ここの成長とは何を指すのでしょうか。
ポータブルスキル、資格、リーダーシップ、コミュ力…私には、世間に浸透している「成長」は、漠然とした形と見通ししか持たず、いわば現代における個人主義的な資本社会の亡霊のような目的に思えてなりません。
また、何をもって成長の基準とするのか、その成長の基準があまりにも見えてきません。
それを年収の増加ととらえている場合が多いと本書でもしていますが、そうである場合、画一的かつある程度偶然的な指標、結果に落とし込んでいるため、それは些か虚像を見ているようでもあるように思えます。
何のために成長するのか
本書の中には、「安定のために成長する」というコンサルタントの話が出てきます。
その根底には、今後に対する漠然とした不安感が煽られており、そこから生じる安定を求める時代精神があるように感じます。
近年では、小学生のころからキャリア教育が行われており、安定的な精神を植え付けているようです。

小中学生のなりたい職業ランキングの上位に会社員や公務員が入っているのをよく目にするのもこの時代精神を反映しているのかもしれないね。自分の小中学生時代の知人にも、サラリーマンや公務員を目指していた人も結構いたね。
しかし、私はこの「安定のために成長する」マインドに対して、懐疑的に思います。
労働力を本源的生産要素としてみる資本経済の中では自身の市場価値を高める、または維持することが安定的な報酬を得ることにつながりますが、このマインドの根底に不安定な社会であるという認識があるのであれば、市場価値の基準も不安定であると認めていることになるため、恒常的に安定なスキルなど存在しないのではないでしょうか。
また、本書にある文芸評論家の三宅香帆氏と作家の佐川恭一氏との対談の中で、「成長させたがる会社」に対する言及もあります。
強制的に成長させるのではなく、「夢」や「目標」といったカモフラージュの言葉を用いてパノプティコン的に成長に仕向けている、パターナリズムの一種であるようです。
このような社会の中では、同調圧力のもと、多くの人たちが成長を追い求めなければならない状況にあるとも思えます。
努力の含蓄について
ところで、皆さんは「成長」のためには何が必要であると考えますか。

そりゃあ、「努力」でしょ。
こう考える人も多いと思います。
この個人主義的な資本社会の現代では、努力が美談として語られており、成長するために不可欠なものとして考えられています。
しかし、私は、その努力の内に、幾分かネガティヴな含蓄があると考えます。
それは、いくらか非自然的な働きであり、義務的、自制的、悲愴的な、いわゆる「追い込み」の含みがあるということです。
はじめに、本書の帯に「仕事と成長に追い立てられる人たちへ」という文言があると書きましたが、そこから頑張らなければならない、努力しなければならないという強迫観念が社会の中に流れていることを感じずにはいられません。
その理由として、年収や学歴、地位やステータスといった画一的な指標が独り歩きして、それを欲しいままにしたいわば「栄光の人々」の各種メディアやSNS上における輝かしく見える振る舞いが拡散されることで、それがすべてであるかのような虚像をスクリーン上に映し出しているためだと考えます。
厄介なのは、この強迫観念が自分自身の中で、次々と生み出されていくことです。
例えば、いわゆる「年収1000万円の壁」を超えたものの、上には上がさらにいることを知り、「もっと頑張らなくちゃいけない」と考えてしまうようなことで、それには際限がありません。

「隣の芝生は青く見える」ということだね~
また、大学受験のときには、成績が伸び悩んだときに「もっと頑張らなくちゃいけない」と自分を自分で追い込んでしまい、悲愴感が漂い、メンタルを崩してしまった知人もいました。
このように、その「努力」という名を冠した不適切な「追い込み」は画一性を帯びた成長の前に存在するように思えます。
成長の画一性からの脱出
少し前に戻ります。
成長の動機として、安定と社会に流布する強迫観念が挙げられました。
これらはともに、画一的な価値基準のもとにつくられるものであります。
本書でも語られているような今日の自己啓発ブームにも見て取れますが、「○○でない人は生き残れない」だの、「年収○○万円以下は負け組」だの、画一的な価値基準のもとでの比較を煽るようなコンテンツがあふれています。

必要条件でも十分条件でもないものがあたかも必要条件として語られているね。一種の「生存者バイアス」のように思えるよ。
こういった画一的な尺度に振り回されないための考え方として、本書では「ジョブ・クラフティング」という発想を挙げています。
ジョブ・クラフティングは「自らの仕事経験を自分にとってより良いものにするために、主体的に仕事や職場の人間関係に変化を加えていくプロセス」であると定義されていると言います。

本書ではその一例として、ディズニーランドにおける「キャスト」の位置づけがあるよ。自分は掃除係ではなくキャストであるとその役割を定めることで単にその場をきれいにするのではなくゲストを楽しませることに主眼が置かれ、そのプロセスを通じて仕事の内容とやりがいが変化する、といったことだね。
このジョブ・クラフティングのような視点を持つことで、自分にしかできない仕事が生まれ、それに応じて自分だけの価値基準や美学が生じるため、画一的な価値基準からの脱出に向けた手段の一つとなりうるのではないでしょうか。
ここで、レジー氏の以下の言葉を引用します。
まずは自分が興味を持てることから目の前の仕事のあり方を変えていき、その過程においてスキルを身につける。そしてその結果として、他者から評価されるようになる。この流れをどう作るかそれぞれが考えることで、画一的な成長競争から逃れるヒントを得られる。
この点に、競争の画一性ではない、本当の意味での「成長」を見出せるのではないでしょうか。
大衆からの評価を軸にするのではなく、自分自身の外界に対する純粋な興味を軸とする、そういった態度が成長の画一性から脱するカギとなりうるのではないでしょうか。
おわりに
レジー氏は、本書で決して「成長しなくてもいい」という態度はとっていません。
この成長を煽るような社会精神はしばらくは変わらない中で、そのような態度をとっても何の解決にもならないからだとレジー氏は言います。
ただ、その成長の意味についてもう少し思考を凝らし、成長と向き合うべきではないでしょうか。
レジー氏は、本書の最後に次のような文を残しています。
最後に改めて問いたい。あなたにとって、成長とは何ですか?
私にとっての成長とは、「自分自身の、外界に対する純粋な興味から発した独自的価値基準の内にある自分の理想像に近づき、それを超越していく動き」だととらえます。
みなさんもこの問いについて、ぜひ本書を読みつつ考えていただきたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
![]() | 東大生はなぜコンサルを目指すのか (集英社新書) [ レジー ] 価格:1056円 |

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